今日も今日とて、怖くもない話をするつもりですが、ゾッとしない都市伝説に意味などあるのか、と考え出すと、その無意味さに、私はゾッとします…

 友人からこんな話を聞きました。

 車一台がギリギリ通れるような細い路地が無計画に広がり、それを挟むように民家が続く。民家の中には、住居ばかりでなく、豆腐屋や散髪屋や酒屋、果ては金属加工の小工場までもが点在する。
 大都市であっても、いや、大都市であるからこそ、そんな昭和の下町スタイルの街並みが、今なお息づいている地域があります。友人が幼少期を過ごした大阪市の〇〇区もそんな町の一つです。

 そのような町では、夏の夜、辻の石に腰掛け、涼んでいるお年寄が多く見られます。最近では、住居もだんだん洋風に立て替えられ、商店や工場は閉じ、帰省する度に面白みや懐かしさが薄れていく、と友人は悔やみますが、それでも見られるのが縁石に腰掛ける老人です。

20220806_1

 ある年、帰省した友人は町を歩きながら、ふたつのことに気付きました。
 ひとつは、辻々の縁石に腰掛ける老人たちから視線を感じること。老人たちはいずれも目線を落として、ぼんやりしているのですが、なぜか視線を感じます。
 もうひとつは、実家から最寄りの縁石に腰掛ける老人は、自分が子供の頃から同じように老人で、同じように腰を掛けていたような気がすること。
 近所の老人について、友人が母親に話したところ、あの人は、母が子どもだった頃から80歳くらいの老人で、当時からずっと同じように腰を掛けているような気がする、と言うのでした。
 それが事実ならば、計算上、あの老人は150歳近い年齢となるため、にわかには信じられません。

20220806_2

 老人のことが気になった友人は、それとなく彼を調べ、老人が晴れた日には、日暮れに2ブロック先の家から縁石まで歩いてきて、腰掛け、午後9時ごろに帰っていく、というパターンであることを掴みましたが、それ以上は分かりません。
 そこで、次に、彼は老人が座っている縁石に自分も座ってみることにしました。日が傾きはじめたものの日暮れまではまだ時間のある午後5時、友人は縁石に腰掛けました。 
 とたん、脳の奥をゆっくり探られるような違和感、まるで脳のしわをひとつひとつ舐められるような感触に、彼は気を失いました。
 気付けば、暗くなった路面に、自分の口から点々と唾液が垂れていたそうです。口元をぬぐい、顔を上げた彼の目前にあったのは、かの老人の顔。いつの間にか灯っていた街灯の逆光で、ほとんど表情は見えませんでしたが、その深い視線だけは、今でも忘れられないそうです。
 言葉にならない悲鳴を喉から漏らしたあと、友人は縁石から転げ落ちるように逃げ去りました。

20220806_3

 長寿は多くの人が願うことですが、その昔、旧約聖書の時代、主が人を造ってからまだ10世代くらいの頃、人はもっと長命でした。中でも、最も長命だった人物がメトセラです。メトセラは「ノアの箱舟」で有名なノアの祖父にあたり、1000年近く生きたと言われています。
 その後、人の寿命が次第に減ったのは、主が人への愛想を尽かしたからだそうですが、言い換えれば、「神の愛」さえ受ければ、人は1000年近く生きる可能性があるのです。
 そこから考えると、老人が座っていた縁石、もしくは、その場所は、「神の愛」を受けているのかもしれません。ただし、その神が旧約聖書の主と同一であるかどうかは分かりません。

20220806_4

 友人は、老人たちから感じる視線と彼の脳のしわを舐めた存在は、その感触から同じものだと思う、と言います。また、不気味ではあるものの、視線や感触には邪なものも、聖なるものもなく、ただただ見ているだけ、と感じるそうな。
 老人を長寿と引き換えに「目」として、夏の夜を覗き見ている「神」の目的は不明ですが、人知及ばぬ気まぐれな存在に、理由を求めることほど、バカらしいこともありません…

【おしまい】